空は薄曇、時折挿す陽射しが晴れを予感させるが・・
ぱっとしないなぁーもう梅雨だもんね。
ぱっとしないなぁーもう梅雨だもんね。
吉浦から鍋土峠を登りショートカットのオフロードを混ぜながらの
ポタペースで焼山へ
ここから何故か思いつきで神山峠を降り
呉越えを経由して海沿いを廻り
ポタペースで焼山へ
ここから何故か思いつきで神山峠を降り
呉越えを経由して海沿いを廻り
長浜へ小坪小学校横を通ると
137年の歴史に幕を閉じるようですね・・
137年の歴史に幕を閉じるようですね・・
よく通るものの
じっくりと見ることのない
海沿いにある神社を散策
海沿いの神社らしく亀の甲羅や寄贈されたものが・・
海の交通を見守る長い歴史がありそうですね。
じっくりと見ることのない
海沿いにある神社を散策
海沿いの神社らしく亀の甲羅や寄贈されたものが・・
海の交通を見守る長い歴史がありそうですね。
先へ進み
野呂山麓にある
大須城跡へ
おぉ!ここ、ここ。
全くの予備知識、下調べなしで
登り始めるも・・
よくあるパターンが・・
丘に木、草が茫々で案内版のみって多いんよねぇ・・
良くて石垣とか・・景色でも良ければいいんだけどなぁ・・。
野呂山麓にある
大須城跡へ
おぉ!ここ、ここ。
全くの予備知識、下調べなしで
登り始めるも・・
よくあるパターンが・・
丘に木、草が茫々で案内版のみって多いんよねぇ・・
良くて石垣とか・・景色でも良ければいいんだけどなぁ・・。
登りに入るといきなりの階段で担ぎ
竹林がお見事な和の世界
数十メートルで別世界ですわ・・。
50mぐらいかなあっと言う間に本丸のあった場所へ
現在では須和社が鎮座し武事をつかさどっています。
※ちなみに大須和城の由来
16世紀の初め頃には、水軍の武将として多賀谷氏・及美氏・得益氏が
「仁方・川尻」を共同支配していた。
多賀谷氏は蒲刈を中心に勢力を振るい
東方を代表する小早川水軍の武将である。
及美氏は呉浦(今の呉市)を代表する武将である。
東と西の勢力が同一の土地(仁方・川尻)で共同支配していた。
この事は東と西が対立しながら、境界に当たる仁方・川尻では
水軍として連携していた事を示している。
竹林がお見事な和の世界
数十メートルで別世界ですわ・・。
50mぐらいかなあっと言う間に本丸のあった場所へ
現在では須和社が鎮座し武事をつかさどっています。
※ちなみに大須和城の由来
16世紀の初め頃には、水軍の武将として多賀谷氏・及美氏・得益氏が
「仁方・川尻」を共同支配していた。
多賀谷氏は蒲刈を中心に勢力を振るい
東方を代表する小早川水軍の武将である。
及美氏は呉浦(今の呉市)を代表する武将である。
東と西の勢力が同一の土地(仁方・川尻)で共同支配していた。
この事は東と西が対立しながら、境界に当たる仁方・川尻では
水軍として連携していた事を示している。
瀬戸内海地域は、平安時代末期から経済の大動脈として栄えてくるようになった。16世紀半ばのころ、カラブル神父が本国のポルトガルへ出した手紙によれば、川尻は「船長の九郎右衛門を初め多くの者が船に乗り込んでいた」とある。
当時の川尻の衆は、何隻かの船に武装して乗り組み
水軍として活動していたようである。
大須和城は16世紀ころの水軍の城であった。
平成15年8月 川尻町教育委員会より
当時の川尻の衆は、何隻かの船に武装して乗り組み
水軍として活動していたようである。
大須和城は16世紀ころの水軍の城であった。
平成15年8月 川尻町教育委員会より
その後は竹林の別の道へ行くも行き止まりでした・・。
竹の葉は滑る滑る・・^^;
竹の葉は滑る滑る・・^^;